この悲しい旅館に祝福を!
いつのまにか師走になりましたね。日が暮れるのも早くなり、徐々に年の瀬を感じます。
唐突ですが、この度ついに職を失うことになりました
俺、働いてた旅館辞めます!
辞めるもなにも、旅館自体が無くなってしまうので辞めざるを得ないという話なのですが、ここにこうして書けるだけ、まだ幸せな終わり方を迎えたと思っています
旅館経営者の息子というちょっとレアな出生でしたが、主にマイナス面で様々な経験ができました
せっかくですし、僕自身つらつら文章書くのが好きなので、旅館を畳むに至った経緯を時系列的に追っていきたいと思います
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戦後、焼け野原だったこの地が徐々に町の賑わいを取り戻し始めた頃、当時では鉄筋コンクリート製の珍しい旅館が誕生しました。
この旅館をスタートさせた祖父はそもそも野菜の売り歩きやうどん屋をやっていたらしく、謎の経緯で旅館を経営するまでにこぎ着けます。
先述の通り当時は少し真新しい鉄筋コンクリート製の旅館だったので、プロ野球球団の遠征時の宿舎としても使われていました。国鉄スワローズナインにもご宿泊頂いていたそうです。
国鉄には当時金田投手というスター選手が在籍していました。当然ファンの方も多く、当旅館までフルーツ盛り合わせをドカッと送ってこられ、球団関係者からよくカットを頼まれたと祖母は話します。非常に「面倒だった」そうです笑
年一回ある大相撲の巡業でもご利用頂き、チェックアウトされた後は便座が重量に耐えきれず、割れに割れて大変だったというエピソードも祖母から聞きました。
さらに、吉永小百合さん渡哲也さん主演の映画の宣材ポスター撮りを当旅館の庭で行ったらしく、未だに我が家には麗しいお二人の写真が飾ってあります。
このように経営が波に乗っていた時代が過ぎ、建物の老朽化を睨んで新しい旅館を少し離れた場所へ建設、営業をスタートさせます。これがだいたい40年前です。
その後、最初の旅館は土地を売り更地になりました。
新しい旅館は団体向けに方針を変えました。修学旅行や社員旅行を主軸に売り上げを上げていきます。バブルで景気もうなぎ登りでした。
幸いにも修学旅行が盛んな観光地なので、建築費用や初期投資にかかった費用は回収できつつありました。旅館自体の経営面は好調そのものだったのです。
しかし
しかし
このブログを書いてる俺が生まれた年、祖父はなんと新しいビジネスホテルを全く違う場所に建設。営業をスタートさせてしまいます。
確かにその場所は工業地帯ではあったので需要はそこそこあったのですが、そもそも観光地ではない為宿泊金額は繁盛期閑散期に関わらず常に一定に近く、団体規模の予約なんてほぼほぼありません。さらに周囲にホテル建設が相次ぎ価格競争に発展。宿泊料金はどんどん落ちていきます。
スタート直後から売り上げが想像を遥かに下回る結果になってしまったのです。
なぜ、なぜこのような暴挙を思い至ってしまったのかは亡くなった祖父にしか分かりません。しかし、これ以降家族経営であった我々にこのホテルは大きな足枷として残ります。
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話が少し変わります。
二つ目の旅館では団体様メインということもあり、例えば何かしらの撮影場所にされるなどは無かったです。
しかし2000年が近づいてきたある年に、北海道で大人気を博していたとある深夜番組の企画でたまたまお泊まりいただいてました!もちろん当時はこの地域で放送されていなかったので、この事実を知ったのはおよそ15年後になるのですが、一瞬映像に映ったのはまさしく当館の401号室でした
どんな形でも映像に残して頂くというのは大変嬉しいですね…!
そんな中僕が大学を休学してこの旅館を手伝いに帰郷します。8年ほど前でしょうか…
それ以前に母から突如電話がかかってきて「旅館が倒れるかもしれない」という悲壮な通達を受けており、ある程度のネガティブな思いをしなければならないという覚悟は持っていたのですが、現実は遥かに崖っぷちでした。
負債総額はここでは書けないほどの金額で、ビジネスホテルの建設費にあてた借入金が丸々残っており、その利子とビジネスホテルで生まれる赤字を旅館の利益でなんとか返していくというギリギリの戦いを強いられていました。
あまりにも現実離れした世界と不慣れな職場という両面で神経をすり減らしてしまうわけですが、僕が手伝いはじめて4年後あたりでビジネスホテルを売りに出すことに。
苦労に苦労を重ねながら無事買い手がつき、「ビジネスホテルが出す赤」を無くすことができました。経営した期間は僅か25年でした。
当然営業面での赤も辛かったですが、建造物には土地代や維持費もかかれば人件費も馬鹿になりません。祖父はビジネスホテルだけでなく隣に立体駐車場まで建ててました。維持費、バカになりません…。
この大きな負の財産が無くなり、一つ肩の荷が下りました。
しかし、しかしまだ莫大な負債はほぼそのまま残っており、首を締め付けられ続けることは変わらなかったです。
それ以降も底を見続けてきました
今だから書ける話ですが、数年前の夏に台風が列島を直撃した際は「沖縄から来るお客様を乗せた飛行機が台風で飛ばなかったら今月中に不渡りを起こす」というところまで追い詰められた事もありました。
亡くなった祖父から旅館を継いだ父の資金管理が甘く、一度だけですが僕の友人にお金を借りることもありました。借りた後の帰りの車の中で情けなくて悔しくて泣きました。あの涙は死ぬまで忘れません。
当然こんな状態だと設備投資へ回す資金は限られており、次々と旅館にボロがで始めます。
築40年経っているので当然です。
外壁、内装、部屋のユニット、配管…。全てが目に見えて老朽化が進んでいきました。
あまりにも情けなく恥ずかしい内容なので詳しくは書けないのですが、設備関係でお客様に大変なご迷惑をおかけしたことも多々ありました。
もし次大きな設備が壊れたらお終いだな、という状況は長かったです。
チェックインされてきたお客様の「なんやこの旅館」という怪訝な表情を何度も見てきました。
実際にお客様が口にされたこともありましたが、最初から当館に足を運びたくないと思われているお客様を迎えるというのは不甲斐なさと悔しさ、やるせなさ…
来ていただくお客様には忌み嫌われるものの、団体旅行の需要が高いから儲けは出るし予約は埋まる、そのような状況が今の今まで続いていました。
今年の秋にとある高校生がチェックアウトされる間際に呟いた「小学生もこの旅館泊まるんだって。かわいそうに」という言葉は胸に刺さるものがありました。
この一言も死ぬまで忘れることはないでしょう。
この世に人間以上に怖いものはないなと何度も何度も思い直しました。
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ここから先はデリケートな話になってくるので端折りながら書き起こします。
今から数年前、借入をしていた所からこの旅館を売りにかけるという報告を受けました。
売らずに単純に手放し、我々に負債額を請求できる手段もあったはずですが、売るという選択肢を取っていただきました。
その後買い手がつき、さらにそこからまた売りに出てとある方に買い手がつきます。
さらに話し合いが進み、この旅館の土地や建物をその方に全て売ることに。元々立地が良かった為、多少土地代は高かったのは不幸中の幸いで、負債額を0にできる金額での売却になりました。
あの時感じた安堵感はどんな言葉を使っても表せません。
我々の現状を理解していただける、素晴らしい方に我々の旅館を買っていただきました。
手伝い始めて8年間、長い道のりと苦難の旅でした
この旅館を廃業まで辿り着かせる為に僕は生まれて、経験を積んできたのだと心の底から思っています。
この状況に全力で立ち向かってしまうと自分が耐えきれず倒れてしまうし、かといって甘える立場に引っ込んでしまうと後悔が襲ってくる、このバランスの両立は難しかったです。この8年間は自分との闘いだったのかも、と今更ながら思います。
毎日底の底の底の底を見続けて、これが人生の財産になったかというと、こんなものが財産なら全部投げ捨ててやるわと今では考えていますが、いつかこの経験があって良かったと会える日が来ればいいかな。
無事に畳めたという安堵の思いと、幼少の頃から常に隣にあったこの旅館を最後まで愛してあげられなかったという後悔の思い…二つ持ったままこの12月で営業を終えることになります。
同じ旅館でも惜しまれながら閉館される老舗旅館をニュースで見てきました。しかし残念なことにこの築40年経った旅館は古く、何年も手を付けてあげられず、ほとんど誰からも愛されないまま終わりを迎えます。
でも、でもでも最後ですから!
愛してあげましょう!
何十年も見守っていてくれてありがとう!
僕が生まれてからずっと支え続けてくれてありがとう!育ててくれてありがとう!
僕たちの手で、という事にはならなかったけど、来年以降生まれ変わると思うので新しい姿が楽しみです!
この素晴らしい旅館に祝福を!